余市リンゴのはじまり

 明治12年、余市山田村の金子安蔵の畑で49号(国光)と呼ばれるリンゴが複数の実を結んだ事が余市農業発達史に載っています。同じく赤羽源八の畑でも19号(緋の衣)が結実したとされていて、これが「余市リンゴのはじまり」といわれています。
 そもそもこのリンゴを結実させた苗木は、明治8年に開拓使から贈られたもので、余市においても農家各戸に数本づつ配られていました。
 開拓使は明治5年3月、アメリカからリンゴ、梨、桃、プラム等の苗木を輸入すると伴に、その栽培の指導者としてルイス・ベーマーを雇い入れました。
 着任早々、東京の官園でルイス・ベーマーが教えた簡便で確実なリンゴの接ぎ木法が、開拓使のみならず他の部署にも伝授された結果、大量の西洋果樹の苗木が全国に配布されました。
 現在りんごの主産地である青森では「明治8年、内務省勧業寮から3本の苗木配布。県庁構内に植える。これが青森りんごの始めだというのが定説」とされています。また生産高第2位を誇る長野では「明治7年アメリカのりんごの苗木が勧業寮から長野県下に交付されたのが信州りんごの始まり」と言い伝えられています。
 いずれもルイス・ベーマーによる接ぎ木法が基になっています。
 ところで、明治5年、ベーマーが指導する東京青山の官園に、余市から中田常太郎という元会津藩士が「農業成育方」として派遣されています。
余市とベーマーの初めての交わりといえるでしょう。
 ベーマーは、明治7年、植物の生育分布調査で半年ほど北海道を廻る中で、7月26日に10名余の従者と伴に回路古平を経て余市の地を踏んでいます。
 ベーマーは5月に東京から函館に上陸後一時体調を崩した為回復を待って7月4日に本来の目的である北海道植物調査の旅を始めますが、その途中での余市寄港でした。一行は余市に一泊し翌日陸路札幌に向けて旅立っていますが、残念ながら余市には記録が残されていません。積丹、美国、古平を経由して余市に至る陸路は厳しい山越えの連続です。
 療養の為当初の予定を大幅に遅らせてしまったベーマーは、この難所を避けて古平から海路を取ったものと思われます。当時の余市はサケの豊漁に加えてニシン漁業の第一期最盛期を迎え、各地からの移住者が相次ぎ浜中から沢町一体は大いに賑わっていました。
 明治3年浜中町に明治政府の開拓使出張所が設けられていたこともあり、開拓使の用命で東京から出向いてきたルイス・ベーマー一行は厚い歓待を受けたものと思われます。
 翌明治8年、ベーマーによって品種名と番号で管理されたリンゴの苗木が北海道各地に配られました。 こうして余市のリンゴの歴史も始まりました。

Wikipedia にて、ルイス・ベーマーのさらに詳しい情報を読むことができます。
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