その2.運命との出会い

 1894年(明治27年)生まれの竹鶴政孝が本格的ウイスキーを学ぶ目的でスコットランドの中核都市グラスゴーを訪れた時は24歳であった。第一次世界大戦以前は造船業・機械工業で栄えていたグラスゴーも終戦によって失業者が街にあふれ経済的にも大きな打撃を受けていた。こうした時期に遠く日本からやって来た私費留学生の竹鶴が好奇の眼差しで迎えられたであろう事は想像に難くない。竹鶴はこの時のグラスゴー大学やロイヤル工科大学での聴講と主任教授との交流の模様を自伝で詳しく綴っているが、ここで教えられている応用科学の基礎は彼が大阪高等工業学校で学んだレベルを超えるものではなかったことから、彼は座学よりもウイスキー蒸留工場での実習を強く望みその機会を求めてスコットランド各地の蒸留所をこまめに訪れ現場での体験を重ねてそれを詳しくノートに書き取っていた。その当時のノートが後に、山崎や余市での国産ウイスキー製造の貴重なマニアルとなっていったのである。大学の講義のない時は図書館でウイスキー関連の書物をむさぼり読む傍ら寸暇を見つけては肉体労働も厭わず蒸留所での実習に明け暮れる竹鶴もベットに入るとホームシックから幾度も故郷の母を思い出し枕を濡らしたという。
 しかしそんな心細い夜を過ごしていた竹鶴に運命の出会いが訪れた。
 彼の自伝「ヒゲと勲章」(1966年ダイヤモンド社)によると、グラスゴーに到着した翌年の1919年(大正8年)6月に運命の人リタの自宅を初めて訪れ、そこで清楚で理知的な彼女に一目惚れしたとされている。
 たまたまグラスゴー大学で知り合った紅一点の医学生エラの招待を受けて彼女の自宅を訪問し両親のカウン夫妻、そしてエラの姉リタ(ジェシー・ロバート)と妹のルーシーそして弟のラムゼーの5人がいて竹鶴は大いに歓待されたという。しかし、この竹鶴の自伝には二ヶ所大きな誤りがある。イギリスで長く日英交流史を研究してきたオリーブ・チェックランド女史の著書「リタとウイスキー・-日本のスコッチと国際結婚ー」(1998年日本経済評論社)や2004年PHPから出版された松尾秀助氏の「琥珀色の夢を見る」によれば、竹鶴がグラスゴーに到着してほぼ3ヵ月後の1919年3月には既に竹鶴はリタの住まいであるカーカンテロフのカウン家に居住していたであろうと記されている。当時のグラスゴー大学の夏期講座受講にあたって提出された竹鶴の住まいがカウン家の住所になっておりその記録(3月4日付け)が大学の資料室に残されているという。
 そしてまた竹鶴が訪問時に歓談したとされるリタの父親のカウン医師は、竹鶴がスコットランドに向け神戸の港を旅立った1918年6月29日の1週間前の22日に既に病によって没していたという事実がある。竹鶴を主人公とする伝記小説「ひげのウヰスキー誕生す」(1982年新潮社)の著者である川又一英氏も後に現地の新聞社を訪れてそれを確認している。またアサヒビールの公式サイトにある「竹鶴リタ物語」でも竹鶴はリタの父親とは会っていない。それでは何故竹鶴は肝心なリタとの馴れ初めや実家の状況について事実と異なる内容を語り続けたのであろうか。それについて本人は一切語っていないが、そこには竹鶴のリタに対する深い愛情と思いやりが隠されていたと筆者は確信する。

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