その5.国産ウイスキー誕生

 1929年(昭和4年)4月1日国産初の本格ウイスキー「サントリー白札」が発売された。宣伝上手な寿屋は次の様な新聞広告を大々的にうった。「醒(さ)めよ人!舶来盲信の時代は去れり 酔はずや人 吾に国産 至高の美酒 サントリーウイスキーはあり!」しかし、模造スイスキーの甘さに慣れ親しんだ消費者は、本格的ウイスキーは焦げ臭い、といって容易に受け付けなかった。
 また鳥井と竹鶴の間でも発売時期を巡り互いの立場の違いが表面化していた。樽詰した後5年から10年は寝かせておきたいという竹鶴と、5年も待てないという事業家の鳥井のあせりが絡み合い、結局4年半という熟成期間で出荷された。長期間熟成された樽のモルトと期間の浅いものをブレンドすることでウイスキー特有のまろやかな香りと味が醸成されると固く信じる竹鶴も、眠らせてる間も金利が嵩んでいく現実の前には必要以上にあがなうことは出来なかった。実はこの「サントリー白札」が思いのほか売れなかったことから更に樽の中で眠り続けるという皮肉な経過を辿り後々一層価値あるモルトに熟成し寿屋の屋台骨を盤石なものにしていったのである。
 本格的スコッチウイスキー製造の夢に燃える技術者竹鶴政孝と「国産ウイスキー」の事業性にかける経営者鳥井信治郎との間には明らかに溝が生まれはじめていた。
 サントリー白札発売の前年に竹鶴は山崎のウイスキー工場長兼務のまま寿屋が横浜で買収したビール工場の工場長を命じられていた。
 山崎で長期熟成にこだわる竹鶴の影響力をそぐという狙いが鳥井にあったのかもしれない。当時鳥井は、竹鶴との10年という契約期間の満了を見越して学業を終えたばかりの長男吉太郎を後継者にすべく教育係を竹鶴に依頼していた。竹鶴はもとよりリタも喜んで吉太郎を自宅に招きウイスキーの知識や英語を惜しみなく教えた。竹鶴夫妻には子供が生まれなかったが1930年(昭和5年)3月遠縁に生まれた女の子を養女に迎えリマと名付けて可愛がっていた。そこに吉太郎が加わり竹鶴一家は急ににぎやかになった。
 1931年(昭和6年)竹鶴、リタ、リマ、そして吉太郎の4人は欧州へ半年間の旅をした。竹鶴が吉太郎を連れて欧州各地を廻っている間に、リタはリマを連れて母や妹が待つ故郷を訪れた。早瀬利之氏の「リタの鐘がなる」ではこれをリタの初めての里帰りとして感動的文章で綴っているが、1925年夏に続いて2度目であった。経済的に恵まれた環境にありながら僅か2度の里帰りという事実から、いかにリタが日本人に成りきり竹鶴に寄り添いそして強く支えていたかを伺うことが出来る。欧州から帰国した竹鶴は鎌倉に居を構え、鳥井からの指示に従い横浜ビール工場の拡張工事に精を出していた。そんなある日突然そのビール工場が東京麦酒という会社に売却されたことを知らされた。工場長である竹鶴には事前の相談もなく、さらに鳥井はこの売却により相当の利益を上げたことを自慢げに語っていた。これで竹鶴は決心を固め1934年(昭和9年)3月1日寿屋を退社した。
 竹鶴夫妻に全幅の信頼を寄せていた鳥井吉太郎は1940年9月若干33歳で病没した。ニッカウイスキー第一号が余市で誕生したその年であった。

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