その7.ウイスキーを愛した人たち(終わり)

 スコットランド留学当時の竹鶴政孝は、ハイランド(北部)でモルト・ウイスキーの製造法を、その後ローランド(南部)でグレーン・ウイスキーについて学んだ。当時はモルトウイスキーを製造する蒸留会社からそれを仕入れた販売会社が、異なった原酒を混合させ、更にトウモロコシ等の安価な穀物から作ったグレーン・ウイスキーとブレンドして売っていた。こうした中でもブラック&ホワイト、ジョニーウオーカー、ホワイト・ホースなどは既に当時から代表的銘柄であった。竹鶴は、このウイスキー製造全般に関わる工程を実地で学ぶと伴に、課税方法や労働管理等もこまめに調べ、手書きの図面を付け加えるなどした報告書を摂津酒造の岩井喜一郎常務に送った。のちに「竹鶴ノート」と呼ばれるこのレポートが日本のウイスキー造りのバイブルとなったのである。岩井は大阪高等工業醸造科の第一期卒業生で十五期生の竹鶴の大先輩であった。その縁から竹鶴は岩井を頼って摂津酒造に入社した。その後二人は一緒にウイスキー造りに関わることはなかったが、岩井の手元に残った「竹鶴ノート」は後に新たな国産ウイスキーを誕生させている。摂津酒造退職後、本坊酒造の顧問に就任した岩井喜一郎は1960年ウイスキー部門の立ち上げを任され「竹鶴ノート」を元に山梨で本格的なウイスキー造りに携わった。そこで産まれた「マルスウイスキー」は、一時的中断はあったが岩井の死後製造が再開され、現在もアルプス駒ヶ岳の麓で造られている。竹鶴は本場を凌ぐウイスキー造りに打ち込む過程で、摂津酒造の田中社長や岩井常務、そしてサントリーの鳥井信治郎等と運命的な出会いを重ねてきたが、朝日麦酒の初代社長山本為三郎との出会いがなければ、その後のニッカウイスキーの発展はなかったであろう。竹鶴がスコットランド留学に旅立った時、神戸の港で彼を見送った関係者の中に山本もいた。家業の製びん工場を経営していた山本は、秀でた商才を遺憾なく発揮しビール業界に不動の地位を築き、昭和24年(1949年)財閥解体によってそれまで唯一のメーカー大日本麦酒から分離された朝日麦酒の初代社長に就任していた。関西を代表する実業家の山本は、大日本果汁の筆頭株主で証券会社を経営していた加賀正太郎とも極めて懇意な関係にあった。昭和27年、復興著しい東京に本社を移した大日本果汁は社名を「ニッカウヰスキー」に変えて販売強化につとめたが思うように売れなかった。ここでも長期熟成にこだわり安価な製品販売を嫌う竹鶴に対し、筆頭株主の加賀は、他社同様の低品質でも需要がある限り売り出すべきである、と主張し対立していた。結局病気により余命を悟った加賀は、昭和29年所有するニッカの株式全てを朝日麦酒の山本に譲ってしまった。こうして竹鶴らの意思とは別にニッカは朝日麦酒の傘下に入ることとなった。しかし、竹鶴のウイスキーに掛ける並々ならぬ情熱を信ずる山本は経営権を全て竹鶴に預けたまま自分は相談役に徹し口出しをしなかった。結局この朝日麦酒との資本提携を契機として販売体制を充実したニッカの業績は一気に拡大し、竹鶴とリタの生活もやっとゆとりを取り戻した。しかし、それなほんのつかの間であった。もともと病弱だったリタは半年ほど前から体調を崩し、昭和36年1月17日こよなく愛していた養子の威(たけし)一家と政孝に見守られて安らかに逝った。満64才であった。その後リタを失った悲しみに打ち拉がれながらも、竹鶴はリタと約束した本格的ウイスキー造りに身を捧げ、遂に昭和40年、不朽の名酒「ブラックニッカ」を世に出した。あのラベルのベレー帽をかぶった気高いヒゲの「キング・オブ・ブランダーズ」こそ竹鶴と伴にウイスキーをこよなく愛した人達の象徴といえよう。

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